9月1日付で掲載した拙稿(real-japan.org/?p=1806)に対し、佐藤健志氏がご自身のブログで2回に渡り拙稿を論評している。以下のリンクを参照されたい。
単純化もできない議論の果てに(1) | 佐藤健志 official site ”Dancing Writer”
単純化もできない議論の果てに(2) | 佐藤健志 official site ”Dancing Writer”
本来、わざわざ2回に渡り論評いただいくことは感謝すべきことであろう。あくまでも「形式と内容が真っ当であれば」の話だが…通読したところ、私の表現力と読解力の不足の糾弾に終始し、感情の趣くままに私の人物像を膨らませて結論に至っているとの印象を受けた。ブログ上の意見表明であることを考慮しても、感情に任せすぎである。
佐藤氏は批判の根拠として私の読解力不足をことさら指摘しているのだが、文章とは読者に解釈が委ねられることが大前提である以上、著者が「読者の読解力不足」を根拠に反論することは道義的に問題がある。「読者の読解力不足」を反論の根拠とできるのであれば、著者は内容についていかなる責任からも逃れることができる。このことは本来、著者が反論を試みる際に留意せねばならないのだが…
改めて説明するが、先の論評の主な目的は、中野氏と佐藤氏による「論点の整理」が妥当なもとは思えないことを指摘することであり、議論の際の「単純化=論点を整理」を否定しているわけではない。例えば、両人が自らの「アメリカ嫌い」を反映する形で、日本人の対米観を「親米保守」「反米保守」「左翼」の3つに過度に単純化していることを指摘したことについて、佐藤氏は私が第4の対米観を提示しないことは責任逃れであると批難する。しかし、私は第4云々以前に、両人による日本人の対米観の単純化の妥当性を問題視したのであり、その意味で佐藤氏の批判は的外れである。
対談に話を戻すと、両人は「アメリカの覇権の凋落=不可逆的な流れ」との前提で議論を進めている。不可逆的かはともかく、現在のアメリカが内向き姿勢にあることは、それこそ日本の存立や繁栄(特に安全保障面)にも大きな影響を与えかねない現象である。しかし、両人にとっては自らが定義する「親米保守」「反米保守」「左翼」を批難するための材料でしかないようだ。そもそも簡単に「アメリカの覇権の凋落=不可逆的なもの」と言い切ってしまうこともいかがと思うが…アメリカが内向き姿勢に傾いたことは戦後も何度かあったわけで、今回と過去のものとの本質的な違いを明示しなければ、眼前の現象を説明しているに過ぎない。
『コモン・センス』に依拠し威勢よくアメリカに異を唱えるが…アメリカに拘泥している点で、両人が定義し批難する「親米保守」「反米保守」「左翼」と本質的には変わらない。朋友同士が共鳴し褒めあうのは結構だが、論壇で議論する以上はもう少し生産的なものにしていただきたい。